2006-10-26 !”#$%&’(_ 世の中なにか狂っている。最近の世情について、いろいろ思うところがあって、いろいろ書こうかと思ったのだけど、日記に気楽に書くにはあまりにも重い内容なので、さらに熟考して時と場所を改めて書くことにした。 ただ、ひとつ言えることは、『想像力の欠如』ってことはあるんじゃないかな。 それをしたらどうなる? そういうことしたら、相手はどう思う? その先はどうなる? その次はどうすればよい? いま、あのひとはどう思っているのだろう? こういう、基本的な想像の心が、欠如しているとしか思えないのだ、私には。 これは非常に奥が深い問題だ。 最近の情報網の発達とそれに伴う情報リソースの氾濫により、あらゆる情報が、ダイレクトに人間にもたらされるようになった。 その結果、情報を欲している側は、内容について『推測する』『想像する』という行為をしないでも、ダイレクトに知りたいことを得られるようになってしまった。 これは、ある面では大変に便利である技術革新であるが、ある面では大変に悲しく寂しい技術革新だ。 その結果、多くの場面で、得たい情報について、それら周辺の関連情報から『推測する』『想像する』という機会が激減したと言えるだろう。 例えば恋愛。 私が学生のころは、電子メールなんて便利なものもなければ携帯電話なんていうものもまだ無かった。つきあっていた彼女と連絡を取ろうと思ったら、郵政省の手紙か固定電話だ。夜の10時もすぎれば固定電話をかけるにはちょいと勇気が居る。もし、相手の親父だ出たらどうしよう・・・、風呂入っていたらまずいな・・・、まさかもう寝てないよな・・・なんて、いろいろ考えるものだ。 決死の覚悟で電話したところが話中だったりしたものなら大変だ。『こんな時間に誰と話しているのだ???』などと、そりゃもうあらゆる情報を多角的に分析すべく脳内フル回転だ。 しかし今はどうだ。きっと、携帯電話でダイレクトに相手に直接コンタクトできるので、こんな心配なぞするまでもない。 これって一見、今の時代は(携帯電話の恩恵により)相手との距離が縮まったように思えるかもしれないが、実は精神的な距離は、むしろ遠く、希薄になってしまっているように感じるのは私だけだろうか。つきあっている彼女のことを、自分の頭の中で、自分ひとりだけで考える時間が昔より減っているんじゃないかな? 今の人達は。 最近子供の犯罪、自殺がとても多い。大変に悲しいことだ。私もいろいろと、多くの時間、これらのことを考えているのだが、ひとつの原因というか、要因として、『想像力の欠如』ってのは、あるんじゃないかなって思う。 いじめで自殺されてしまった子供は、本当に辛かったのだと思う。でも、死ぬことはないだろうって、思うのも本心だ。いじめるほうも、なんでそこまでいじめるんだって思う。いじめることが、相手にとってどういうことなのか、きっとわからないのだろう。 大人達は、「いじめを認識していたのに隠した学校」云々などと、責任問題に躍起だ。しかし大切なのは希望溢れる将来を持った子供達を、ちゃんとした大人にしてあげることだ。子供は大人が思う以上に、大人達の行動を極めて子細に見ている。自分が子供だったころを思い出してみよう。大人達があまりにもくだらなく情けない行動をしていれば、それは必ず周囲の子供に伝わる。その逆もしかり。 残念ながら学校からいじめを無くすということは、私は不可能だと思う。これは、生物の生理から考えても、いじめというのはどうしても起きてしまうことだ。 しかし、そのいじめを(いじめる側もいじめられる側も)乗り越えて、お互い対等に認め合う関係になることは可能だと思う。それでこそ高等生物である人類と言えるだろう。そうでなければサル山のサルと一緒だ。 実を言うと私も小学生のころ、いじめられっこだった時期がある。毎日学校で泣いていたよ。 今のいじめと昔のいじめは違うって言われちゃうかもしれないけど、そんなことは無い。本質は一緒だ。問題は、どうやって、子供達に『想像する気持ち』を教え、気づかせてあげられるか・・・だ。 もっと読みたい奇特なかたは、↓の読みたい月をクリックしてね。 |
最新ツッコミ |
日付の右の記述は 「なにか狂っている」 の表現なのでしょうね。<br>「いちからはちまでシフトしまくってる」という程度なら理解できますが<br>それ以上の意味がこめられているのでしょうか?
いえ、たいした意味はありません。なんとなく気分でああしました。