2007-01-24 宇宙レベルで考えてみると・・・_ 人間なんて小さい存在。私がはじめて、自然のなかでの自分の立ち位置ってものを感じたのは大学時代、秩父山脈内で野営をしたときのことだ。 キャンプ場なんていう整備された環境ではない。まさに、誰も来なさそうな道をはずれた山奥にテントを張って、数日そこで寝泊りするのだ。 なんでそんなことをしたのか、明確な理由は無かった。当時私は都会を離れた山奥の林道を走ることが好きだった。喧騒から一切隔離された山の中。自分の車のエンジンを止めればあとは自然の成す音しか聴こえない。そんな世界に惚れ込んだ。 その延長で、「テント張って泊まってみるか」ぐらいな軽い気持ちだった。 しかしそれは、とんでもないことの入り口だったのだ。 最初の夜はほんとうに怖かった。同じ経験ある人なら激しく納得してもらえると思うのだけど、本当に怖い。山中にテント張って、周囲には文明に関係するようなものは自分の車以外一切無し。当たり前だけど真っ暗。月明かりってこんなに明るいのかって思えるほどなんにも照明は無い。遠くからはフクロウの鳴き声が。 テントに居るのが怖くて、なんど車に戻ろうかって思ったかわからないぐらい怖かった。風にそよぐ草の音ですら、「まさかなにか獣?」みたいな恐怖感を駆り立てて意味不明に懐中電灯でそこら辺をサーチする。 それほど自然というものは、脅威を感じるフィールドだった。 しかし、二泊目ぐらいから状況は変わってくる。 テントの中で過ごす夜。慣れてくると、なんとなく、自分もこの大自然の仲間になれたかのような気がしてきて、心なしかフクロウの鳴き声も、私に話しかけてくれているように感じる。風にそよぐ草の音も心地よく感じられ、なんだかわからない生き物の鳴き声が聴こえてももはやあまり恐怖感は感じない。 寝袋に包まって眼を閉じてみると、地球の自転が感じられる。 なんだか、宇宙と共に居るんだなって、感覚。 山奥で深夜、眼を閉じて耳を澄ませば大宇宙の音が聴こえる。この一体感ってなんなんだろう。なんだか自分が宇宙に溶け込んでしまったかのような感じを覚えたのである。 昨日の恐怖感を思い出し、今日のこの心地よさと対比するに、人間なんて、いや、俺なんて、宇宙規模で見たらどってことない、取るに足りないほんの米粒以下の存在なんだよなって、思った。 大自然の中で生きている自分というものを知ったとき、一方で、普段は人間社会というシステムの中に適合しようと一所懸命あくせくやっている自分ってアホだなって、真剣に思ったものだ。 自分が持っている悩みなんてさ、ぜんぜんどってことないじゃんみたいな。 今、もし、私が熊に食われて死んだとしても、この大自然はなんら影響を受けないし宇宙は相変わらず運行される。もっと視野を広げても、仮に第三次世界大戦が勃発して人類が全滅したとしても、ローカルでの自然は影響を受けるかもしれないが宇宙は相変わらず運行され、人類が全滅すればそのうち自然に修復されるに違いない。 そう考えるとさ、全ての悩みがほんとに取るに足りないことのように思えてきて、自分の存在が取るに足りない小さいものだってことを明確に認識したそのとき、この大自然のなか、自分で出来ることを全力でやっていけばそれでいいんだって思ったのだ。命あれば儲けモノってヤツだ。 それが私の、いまに続く原動力のひとつかも。 もっと読みたい奇特なかたは、↓の読みたい月をクリックしてね。 |
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