2009-10-09 社会的責任?_ ウィニー無罪判決。一審の有罪判決があまりにも無理矢理すぎたのでどうなるかと思っておりましたが、二審高裁のこれは、当然な判決だと思います。小倉正三裁判長の中立かつ公正な判断にほっと一安心。 この件について各方面の社説を読んでいると面白いですね。そのなかで、私としてとっても気になったのが東京新聞の社説です。とくに気になった部分を以下に引用します。 ソフトの開発と公開に関してのルールづくりも検討したい。何よりも開発者自体が社会的責任を痛感してほしい。影響がはっきりするまで公開を限定するような慎重さが求められる。金子被告は「どう使うかは自由だが、ちゃんと使ってほしい」と述べている。利用者は著作権の重要性をいま一度理解すべきだ。
東京新聞社説「ウィニー裁判 無罪判決は出たけれど」http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2009100902000090.htmlより引用。
おいおいって感じですよ。 例えば、パスワードを盗むソフトを開発公開したとか、違法にコピーするための専用ツールを開発公開したとかいうのなら、そりゃ開発公開者側に社会的責任を問うのも当然かとは思いますが、そうでない一般のソフトにまで、『影響がはっきりするまで公開を限定するような慎重さが求められる。』っていうのは少しおかしくありませんか? 汎用的な効果を得られるソフトを使う場合、それを利用するか、悪用するかはどう考えても使用者側の責任でしょうに。 フォトショップのような高性能な画像処理ソフトを公開したら、偽札を作られてしまう可能性はあらかじめ予測できるでしょう。だからフォトショップを一般の流通ルートで販売しちゃいけないって言ってるのと同じですよこれ。 もっと話を広げれば、殺人目的で使用が可能だから、包丁の販売は限定しろってことと(以下省略)。 さらに言えば、公開を限定したとしても、どんな影響があるのか、どんな事態が起きるか、わからないでしょう。だって、開発公開側が限定可能な公開先というのは、開発公開側が悪人でない限り、常識的な感覚、モラルを持った人なり組織なりになるでしょうから。 便利な汎用ツールというのは、得てして悪用される場合も多いです。汎用的に使えるわけですから当然ですよね。これを、性悪説に則って開発公開側に社会的責任を問うというのは、筋違いもいいところです。 という内容の意見を、送っておきました。 最近の時勢で強く感じるのは、みんな、自立性が希薄になってきているってことです。『自己責任』という言葉をいまいちど胸に刻んで欲しいと思う場面によく出くわします。自己責任の上に自由は存在すると私は思っていますから、規制だ規則だ制限だルールだというのを制定する(される)のは、私はとても嫌います。 でもまぁ、だんだん変わってきているな と思う面もありますので、引き続きしっかり世間を見据えて生きてゆきたいと思います。 もっと読みたい奇特なかたは、↓の読みたい月をクリックしてね。 |
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本当におっしゃる通りと思います。人間の腕力も良い事にも悪い事にも使える訳で使う人次第ですよね。どんな道具も使う側のモラルが一番重要だろうと思います。
どうもこのごろ、考えすぎかもしれませんが、世間の流れが管理社会傾向に動いているような気がしてなりません。<br>国がそう誘導しているのか、国民がそれを望んでいるのか、その両方なのか、あるいは誰も何も考えていないでそうなっているのかわからないのですが。<br><br>例えば、柵の無い川の土手から落っこちた・・・という事故があると、落ちた人間の責任よりも、柵が無かったことの危険性のほうがクローズアップされ、柵を付ける対策が講じられたりする。一見行政がよい仕事しているように見えますが、これって明らかに個人の行動の管理化ですよね。<br><br>もちろん、ほんとうに危険なところに柵を付けるのはよいことだと思いますけど、ここで落ちるほうがおかしいだろ? みたいなところでも、柵を付けたがる。結果、いままで「自己責任」でそこから降りて釣りしたり、河川の生物を観察していたような人たちまでもが降りれなくなってしまう。<br><br>なんだかな〜・・・ って、思います。
”管理=考えさせない” でしょうか。最近ではモンスター・ペアレンツなんて言葉も生まれました。きっと管理社会の弊害ですね。体験より情報が重視されているのは確かです。