ラテン車への道のり-前書き
2001.07.25
前書きといままでのなんの変哲もない普通の車歴
もともとメカニカルなものが小さいときから好きだった私は、当然車も好きで、18歳になって自動車免許を取り、大学時代神奈川県川崎市在住だった当時は、夜な夜な丹沢のダートコースでドライビングを楽しんでいました。
車が好きと言っても、改造とかチューニングという方面には感心が無く、常にノーマルのままもっぱらガソリンを消費するほうが好きでした。まぁ、フォグランプ付けたり点火プラグ変えてみたり、エンジンオイルいろんな銘柄試してみたりオイルぱっくんに感動したりと、まぁそれこそほんとなんの変哲もない普通の人間です。
車のレースは、F1よりは市販車ベースが好きで、WRC(世界ラリー選手権のこと。市販車ベースのラリーカーで一般公道を(もちろんレース用に閉鎖しているが)激走する、まさに激しいレース。(参考→googleで検索してみよう)の放映は毎回楽しみにしており、「いつかはデルタでチュリニ峠を走りたいなぁ」などと思っていたものです。
1978年型 三菱 ギャランΣ 1600cc 4ドアセダン
所有期間:1984年9月〜1987年7月
はじめてのマイカーは、免許取得後すぐに買った、約7年落ちの1978年型三菱のギャランΣ1600ccの4ドアセダンでした。4速フロアシフト。大学生当時のことですね。ま、決してスポーツドライブ向きの車では無く、いえ、どっちかっていえば非力で攻めにはまるで向かない車のようなものでしたが、お金が無かったのでこれしか買えず(諸費用込みで20万円とかだった)、しかし自分の初めての車だったので、そりゃもう納車後は嬉しくて嬉しくて走らない日でも車の中に居たものです。左の写真は自分で撮影したものですが、この写真には、当時の、車への思い入れまでもが詰まっています。
エアコンは付いてましたが、カーオーディオ類は一切無し、パワステなんてものも無し。燃料噴射はキャブ。非常にシンプルでわかりやすい車でした。点火プラグをはずしてみたり、プラグギャップを変えてみてエンジンの調子の変化を定性的に調べてみたり、キャブをはずしてばらばらにしてものの本に書いてある構造と比較してみたりと、よい勉強になりました。
この車のデザインは今でもかっこいいと思うなぁ。
車自体はノーマルのまま、無線機付けたりフォグランプ付けたりして夜の丹沢をこれでドライビングしてました。なんせ非力でしたしパワステでも無いハンドル周りでしたが、低中速コーナーの続くヤビツ峠あたりでは、結構他の車にまじって健闘した走りをしていたと思います。
キャブのニードルが壊れて燃料が噴射できなくなってエンジンが回転しなくなり、急遽解体屋でキャブを調達してなおしたり、デスビからの配線を自作して「これで火花はばっちりだぜ」とか言って自己満足していたり、かなり楽しい思い出が一杯の車でした。当時まだほとんどダートだった川上・牧丘林道では、ブラインドコーナーから突如現れたかっとびバイクを避けるため山側に逃げたら大きな石に下回り激突し、もともとさびていたエンジンとマニホールドのジョイント部が完全に脱落し、エンジン直後で排気するというすごい状態のまま、200Kmの道のりを帰宅したこともありました。高速道路に入るのが怖かったのでずっと一般道(塩山→R20→R139→秋山街道→丹沢→厚木→R246→川崎)で帰ってきましたが、その排気音たるや、街中の人々が振り向き、注目度ではカウンタックにも勝てるぐらいの爆音でした。これも解体屋出身のマフラーと交換して安くあげました。
さすがにこのΣにダートでのハードドライビングは応えたらしく、デフがおかしくなったりクラッチがへんになったり、プロペラシャフトがゆがんだせいでの振動が発生したりと、なんだか安心して乗れない状態になってきたので、泣く泣く手放し(どうしても欲しいというひとが居たので、ただであげた)ました。3年間で12万Kmほど走ったかな。思えばいままでの車遍歴中、もっとも走った車でした。で、次はうまれて初めての新車を買うことにしました。
1987年型 いすず ジェミニイルムシャーインタークーラーターボ 1500cc 4ドアセダン
所有期間:1987年7月〜1988年7月
大学四年だから、1987年の7月ごろかな。当時出たばかりの最終型いすずジェミニイルムシャーインタークーラーターボを買いました。やっと5速フロアシフトです。
はじめて乗ったときの感動はいまでも忘れません。
あの一速でクラッチをつないだ瞬間車が滑るように走り出し、二速でアクセルをちょっと踏むだけでもう40kmぐらいまで出ます。当然こんなちょろちょろじゃ全然ブーストかかってないですが、現代の車とこないだまで乗っていた車の差を歴然と感じたものです。Σ全開よりも、イルムシャー2500rpmのほうが速いぐらいです。1000Kmぐらい走って慣らしももういいやってことになり、いよいよ2速全開の日がやってきました。赤信号で先頭に停止して、前方障害物ならびに危険が無いことを確認し、青になり、一速はふつうにつないで4500rpmで二速にシフトアップして全開します。いや〜驚いた驚いた ^^)。まさにロケットのような加速であっと言う間にレッドゾーンです。あわてて三速に入れるともう三桁台Kmに突入してます。
すごすぎる加速性能に驚きつつ、左折右折もなんなくこなす足回りに驚きつつ、「こりゃすげぇなぁ」と感心(まさに感心だった)する一方で、あの、Σオーナーだったころの、高速道路に入る時の加速車線でこめかみふるわせながらアクセルが床と融合するぐらいまで踏みしめていた充実感がここには無いことに気がつき、ちょっとなんか哀愁さえ感じるぐらいの圧倒的性能でしたねぇ・・・・
車だけに限らないですが、やっぱり機械ってその性能をフルに発揮してこそ機械。機械を操作する人間は、その機械をフルスペックで使ってこそオペレーションの快感があるとそのとき思いました。
非力で遅いけど全開かましてドライブできる車と、強力で速いけど、決して全開できないで腹六分目ぐらいで運転しないといけない車。どっちがいいのでしょうか? 好みとその人の性格の問題ですね。
小排気量エンジンの小気味よさとターボブーストによる高回転域での圧倒的レスポンスは、低中速コーナーが連続する峠道では無敵のパワーを発揮しました。丹沢周辺建造中の宮が瀬ダムへの山道ルートやヤビツ峠に夜な夜な走りに行きました。が、案の定、ジェミニイルムシャーインタークーラーターボは納車後ちょうど丸一年で、今はもう水没した宮が瀬湖山道ルートで、ハンドル操作を誤って橋を破壊し川に落下。一発廃車でした。かなり激しい落下でしたが不幸中の幸いで自爆事故。私は無傷で無事。レッカーと警察を呼んで、壊した橋の検分を行いました。『橋の修理代って高いんだろうな〜』(ついでにガードレールも破壊していたし・・・)なんて考えていると警察の人曰く『この道沈むんで、あと数ヶ月で通行止めになるんだよね〜。だから、ラッキーだったら請求書行かないけど、アンラッキーだったら忘れたころに請求書行くんで覚えててね』とのこと。あれから10年以上の歳月が流れ、とっくに湖に水は貯まってあの道路はすでに湖の中だけどいまだに請求は来ないので、私はラッキーだったようです ^^)
しかし、ほんと、ジェミニにはかわいそうなことしました。反省です。
社用営業車日産ADバンディーゼル
ジェミニターボディーゼル 1500cc 4ドアセダン
所有期間:1988年7月〜1991年8月(両車両の区切り忘れちゃった)
その後はもう、全開かますと廃車になっちゃうような車は怖いし、他人様にご迷惑かけることになるのでもうやめようと思いました。このころは社会人一年生で、なぜか大阪営業所勤務の辞令をもらい、営業をやってました(研究所勤務で採用になったハズなんだけど、まぁ世の中こんなものかって感じ?)。日産のADバンのディーゼルを乗ってて、たま〜に夜の六甲に行くぐらいでしたが、そのあとはジェミニのターボディーゼルに乗ったりしてました。小排気量のディーゼルエンジンだけどターボ付き。でも、やっぱちょっと無理ありかな? って感じで、中国自動車道宝塚付近を吹田に向け巡航走行中に突然後方視界が真っ白になり、ターボタービンが破壊し、だましだまし吹田まで走ってそのまま整備工場に直行した思い出があります。ジェミニターボディーゼルは、生まれて初めてのATミッション車でした。なんかこう、ケツをくすぐられているような落ち着かないものだなぁというのが第一印象。でも、仕事で走って渋滞くらった時などは楽ちんでしたねぇ。しかしあのトルコンの滑る感覚には、最後までなじめませんでした。
時はまさにグループAでデルタが圧倒的な強さを誇っていた時代。「デルタかっちょいいなぁ」などと思いつつ、外車なんか買えるわけもない身分なのでまさに人ごと。そうこうしている間に私は転職してソフトウェアエンジニアになり、東京渋谷の会社に勤務することになり、川崎に戻ってきました。
ジェミニターボディーゼルは、私の関西での生活とともにお別れです。
1991年型 スズキ ジムニーインタークーラーターボ JA11V 660cc
所有期間:1991年8月〜1998年1月
今度はスズキのジムニーを買いました。660ccのインタークーラーターボ。JA11Vです。もうかっとびとはまるで無縁の生活を送ろうと思い、また、気楽に林道に行ってとことこ走って山の空気を満喫したいなぁなどと健康的なことを考え、これにしました。もちろん5速フロアシフトです(つうか、この時代のジムニーにはATなぞなかった)。
ジムニーは楽しい車でした。全開でレッドまで気持ちよくふけあがるエンジン。そして安全に全開で運転できます。また、乗り心地も結構スポーティーで、一速は確かにあれですけど、二速以上はほんと楽しめる車でした。なんの不自由も感じず、スキーに行っても大型の四駆がスタックしている脇を、ふつうのスノータイヤ(オールシーズン仕様)でとことこ走って行けました。全くなんの不満もないお気に入りの車で、妻とつきあいはじめたころに乗っていた車でもあります。マジで20年ぐらい乗っていてもいいなぁと思える車でした。
が、その後私も結婚して娘が産まれて、娘も生後半年すぎて首もとっくにすわって車に乗せても安心なころになると、さすがにジムニーだとせまいし、なにかあった時のために、より安全な車にしようと思い、買い換えを検討することにしました。が、ここにきてまた、『そういえばせっかく買い換えるのであれば、ランチアとかデルタとかいまいくらぐらいなのだろう』。と、思い、カーセンサーを買ったのが運のつき。
ジムニーとは、6年半で、7.8万Kmだったかな? のつきあいでした。その間おおきなトラブルも無く、壁に寄せれば5mmの精度で位置を制御できるほどの、ほんと、よき相棒でした。
将来許せば、また手元に欲しい車です。
1998年型 日産 プリメーラTe-V 2000cc 4ドアセダン
所有期間:1998年1月〜2001年8月
1998年 1月のころの話
新年早々の1月2日。思い立ったが吉日で近所のコンビニで、カーセンサーと自家用車を買ってきて情報収集します。
はじめに見たのはデルタの中古相場。思ったよりも全然安いのでびっくりしました。8Vだと60万ぐらいから、16Vで100万ぐらいから、エボだとさすがに200万以上です。
『安い!』『これぐらいなら買える!』。
しかし私もアホではありません。買えることは買えるだろうけども、その後が問題です。なんせ壊れる代名詞のような言われようのデルタ。おそらくこれは本当の話だと思います。WRCのあのかっちょいい激走シーンが脳裏に焼き付いている私ですが、あれは完璧整備されたワンシーンであることを改めて自己確認し、さらに、出先で車が走行不能に陥り、生後半年そこそこの泣きじゃくる娘の姿と不機嫌大王と化し、その場に無言でたたずむ妻の姿があるさわやかな高原シーンを必死に想像し、また、毎月出ていく修理代のために働くようなものになりかねない自分の生活ならびにそのために飢えに苦しむ家族の姿を想像し、『今はやめておこう』という決断に至りました。
今は子供も小さいし、なにより安全性と安定性が重要だということで、結局ホンダのアコードセダン、スバルのインプレッサセダン、スズキのエスクード、日産のプリメーラを比較検討し、日産のプリメーラTe-Vセダンにしました。ジムニーは10万円で下取りされていきました。うるうる。もともとデルタ以外の外車には全く興味無かったので、デルタがだめなら国産車です。
CVTでしたが、ATみたいに滑る感じが無く、ダイレクトな動力伝達感は結構気に入りました。
無事納車されたプリメーラは、きわめて快調そのものエンジンオイルも3500Km走行ごとに交換、CVTオイルも10000Kmごとに交換するという手厚いメンテを受け、平穏無事な日々を送っておりました。
走りは余り有るエンジンパワーと最新の足回り設計により、そりゃもう限りなく安定している以外の何者でもありません。ファミリーセダンとしては有り余るエンジンスペックにより信号ダッシュでも負け知らず、高速道路でも、相手もよほどキれているドライバーでない限り巡航速度でも負け知らずです。が、走り自体が面白いかというとそのような楽しさは皆無で、なんといえばいいのか、『車の運転=単なる移動手段』みたいな感じで、この点かなり平凡です。確かに車内は広くそこそこ静かで安定している。高速コーナーも普通の運転であれば問題なくクリアできるし、街のりも不満無し。しかし、そのどれもがあまりに安定しすぎており、また、これと言って胸躍る要素もなく、面白くありません。むしろジムニー運転していたころの、やっと3速入れて全開でひっぱって、やっと60Kmぐらい出るようなあのエキサイティングな運転が異様に懐かしく思えたほどです。
『俺もパパになったんだし、車の運転自体を楽しむようなことはもうやめよう。これからは平穏無事がなによりの幸せなんだ』
と自身の右脳にも言い聞かせ、平穏無事なカーライフを送っておりました。
が、そんなカーライフに大異変が訪れたのは新車購入3年半たったある日曜日の午後のことでした。
ラテン車への道のり-その記録へ。