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『写真を撮る』という行為にまつわること
2004年9月30日 青木 康雄 / master@kani.com
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今回は、R-D1とは直接関係はないかもしれない話。 昔のカメラは全部、撮影者の責任で撮影条件を設定しなければならない煩雑さ(とは私は思わないが)があるが、しかし、その代わりと言ってはなんだが、撮影者が設定した通りの動きをしてくれるというような話はすでに書いた。これは同時に、写真に対してある程度の知識が必要になり、また、満足に撮影できるようになるまで、失敗しながら練習しないといけないという、敷居の高さがあることも事実だ。 なにもしないで、シャッターを押すだけで奇麗に写せるカメラ。初心者でも撮影に失敗しない(しにくい)カメラ。そんなカメラを市場に出すべく、各メーカーはしのぎを削って製品開発を行ったに違いない。 昔のカメラに最初に搭載されたのは、自動露出機構・・・属に言うAEだ。AEの搭載により、露出条件の設定ミスによる露光の過不足という問題は、大きく減少し、また、はじめてカメラをいじる人でも、露出の勉強はしないでも距離さえ合わせれば、とりあえず普通のシーンでは、撮影ができるようになった。これは「失敗しない写真」を撮影者に提供するという点では、大きな進歩と言えるだろう。 次に対象となったのは、距離合わせである。いわゆる「ピンぼけ」写真を生成しないために考案されたのが、オートフォーカス・・・属に言うAFだ。AFの実用化により、露出だけでなくピントまでも合わせる必要がなくなり、はじめてカメラをいじる人でも、まさに、シャッターを押すだけで、奇麗な写真が撮れるようになった。 |
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私はどうも、AFというのは未だに好きになれない。そのためか、娘の運動会や結婚式披露宴などで動員する際の銀塩撮影システムは、未だにCanon AE-1をベースとしたものである。デジカメはさすがに、MFがまともに使えるものを持っていなかったこともあり、AFに甘んじていたが、そんなこともあってか瞬間を狙う必要のあるシーンでは、いつも銀塩カメラを使っていた。 なんでAFが嫌いかというと、以下のような理由からである。
もちろん最近のカメラでは、これらは相当改善されてきていることも知っている。EOS系はAFは非常に高速だし、IXY DIGITALのように合焦位置をGUIで示してくれる機種もある。また、シャッター半押しからの開放を目指し、コンティニュアスAFを採用する機種もある。 しかしやはりそれでも、「あっ」と心が動いた瞬間に、場合によってはノーファインダーで、ちゃんと自分が意図した位置にピントがあっていてなおかつ、レリーズボタンを押したときに時差を感じることなくシャッターが切れるというAFのカメラは、私にとっては未だに存在しない。 そんなところがAF嫌いな理由である。 シャッター半押しでピントを合わせるという行為は、すっかり最近では市民権を得たが、このなんとも間抜けな時間のために、撮影される写真はみな「はいちーず」的な作為的な世界のものばかりとなり、一瞬を切り取った、活きた写真が減少したなぁと感じるのは私だけだろうか。 AFの登場により、ピントの合った奇麗な写真を撮れるようになったこととのひきかえで、活きた一瞬を切り取ることができなくなったとしたら、それは大問題である。 |
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--- 家内は、写真はまるで素人だし、なんのこだわりもあるわけでは無く、ほんとうにスナップ写真専門のフルオートカメラユーザーである。 結婚する前、私はよく家内を連れて(当然そのころは家内では無いのだが)、写真を撮りにあちこち出かけることが多かった。家内も素人なりに写真を撮ることは好きだったようで、私と一緒に、自分も写真を撮りたいと言い出した。 そこで私は、所有していたコンパクトカメラのなかから、たまに使う程度であったオリンパスの「濡れてもピカソ」AF-1という、フルオートコンパクトカメラを手渡した。これは、なかなか手堅くまとまった使いやすいAFコンパクトカメラで、しかも、雨が降ろうともまるで気にしないでOKな生活防水で、とても使いやすいものであった。レンズバリアー連動の電源スイッチは立ち上がり時間も速くストレスない撮影ができるハズだったのだが、しばらく使っているうちに家内が「シャッター押してから切れるまでのタイミングがわかりにくい」「ピンぼけ写真がたまにある」(中抜け)というクレームが入る。 次に用意したのは、コニカのビッグミニBM-301。軍艦部のシャッターボタンと併設された電源スイッチは許せないレイアウトであったが、まじめに設計された単焦点レンズは高解像力で素晴らしい写りをするコンパクトカメラであり、また、主観であるがAF-1よりもAFはずす率が低いように感じるカメラである。これはしばらく満足して使っていた。 写真生活的には、ビッグミニを使ったり、AF-1を使ったりで過ごす日々。そんなある日、家内と一緒に紅葉を撮影しに行ったときの一言。 「落ちてくる葉っぱをうまく撮れない。撮るにはどうしたらいい?」。 彼女は一所懸命上から降ってくる葉っぱをファインダーで追いながらシャッターを切ろうとするが、カメラがまるで追いつかない。 「この要求に応えるには、AFでは無理だ」と判断した私が次に用意したのは、往年のコンパクトカメラ、キヤノンのデートマチックであった。 AEは搭載されているがAFは無いので、距離合わせの概念を覚えてもらわねばならない。 ブライトフレーム内に用意された二重像を合致させるおなじみの方法である。落ちてくる葉っぱのようなものを撮るときは、あらかじめ同じような距離にあるものでピントを合わせておく。葉っぱを追っかけながらシャッター切ると、背景が流れるので、葉っぱが落ちてきそうなところであらかじめ構図を作っておいて、そこに葉っぱが入ったらシャッターを切ればいい・・・等。露出はAEだから、押すだけでいい。 「そんなの難しくてうまく写せないかも」なんて言っていた彼女であるが、ピント合わせはほんの5分も練習して基本は習得。それまでのキャノネットに比べると「甘い」とよく言われるデートマチックのレンズであるが、それでも当たったときには「これでもか」といわんばかりの解像を示し、そうでないときにも、やさしい輪郭描写はなかなか良い感じで、一見「これほんとにコンパクトカメラで撮ったのか?」と疑いたくなるような写真を家内は手にすることができるようになった。1mぐらいの距離にピンをおいたときの背景のボケもなかなか味がある。キャノネットに比べてプラスチック製になった筐体は「やすっぽい」と言われること多々あるが、軽量化されたその重量は、むしろ家内には好評であった。 |
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家内はこのカメラを大変気に入ってくれて、これ以後、デジカメを買うまでの間、ず〜〜〜っと、このカメラを使っていた。 たまにピントをはずすときもある。デジカメと違って、現像してみないことには出来がわからないのであるが、たまに生じるピンぼけ写真。でも、「写したい時に写せるから、これが好き」という理由で、ピンぼけ写真があっても決してデートマチックを手放そうとはしなかった。 新婚旅行にも、「これならちゃんと撮れるから」という理由で、なんの躊躇もせずにデートマチックを持って来た。 写真を撮るって、そういうものじゃないだろうか。 |
誰でも、撮影になんの知識が無くても、押せばピントの合うAFは素晴らしい技術だと思うし、否定する気は毛頭無い。これにより多くの人が、ピンぼけ写真から救われたことは技術革新が成した偉大な成果だと思う。しかし、写真を撮って行くうちに、現状よりちょっと上の表現を実現したくなった時、AFを捨てるという選択があることも、もっともっと多くの人に知ってもらいたいと思う。またさらに言えば、「時間の一瞬を切り取る」ということの面白さ、大切さ、奥深さについて考え、写真にはピントよりも大切なものがある(*1)ということを、考えてみてもいいのではないか。
でも、そんなことを実現できるカメラが極めて少ないことも事実だ。 さて、どうしよう。 ---- 私は年に1度、2日間だけ、レンズ付きフィルム(いわゆる「写るんです」だけど、買っているのはコダックの「スナップキッズ」)を使うことがある。年に1度というのは家族で行く夏の海水浴時だ。さすがに海の中に、ざぶざぶデジカメもって入るのはいやだし、銀塩カメラだっていやだ。レンズ付きフィルムは、そんな時大変便利だ。 毎年レンズ付きフィルムを使うと感じることなのだが、なんとその撮影リズムの軽快なことよ。フィルムさえ巻いておけば、パンフォーカス故押せば即撮影される。これはこれで、とても楽しい。背景のぼけなんか望むべくも無いし、写りももちろんそれなりだけど、撮影したいという行為をスポイルする要素が何も無い。 写真を撮ることって何だろうか・・・と、自問した際、なかなか侮れない、レンズ付きフィルムである。 |
ピントだってもちろん大切だ。合っているに越したことは無いし、ピンをハズさないよう、日々訓練を欠かさないことはもちろんだ。が、私にとっては、ピントよりも「一瞬」のほうが大切であるということだ。「一瞬」は自分の力ではどうにもならない偶然だが、ピント合わせは訓練次第でどうにかなる。もちろん人それぞれ。一瞬なんかどうでもいいから、お気楽にピントが合うカメラがいいという人だって居るだろう。それはそれでいい。まさに、それぞれ人の好み。 私は、二度と繰り返すことのない、一過性の時間のうちに生きているということだ。 |
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