2005年大晦日の昼どき。
はじめは「かにの泡ぶく」に書いた内容なのだが、日記として考えるとちょいとふさわしくない内容でかつ、結構長文だったのでこちらへ移設。 思い出した。 「レーザー兵器の軌道計算」なんて書いていたら、遠い昔の話を思い出した。 まぁいまさら問題ないとは思うが、なんといっても20年以上も昔の話。記憶もほとんどぼけぼけだし当時の私の認識が正しかったかどうかの真相も今となっては甚だ疑問だ。ということで、創作おとぎ話的読み物として、以下読み流していただければ幸い。ここはぜひ「作り話」ってことで。 --------------------------------------- 幾らなんでも20年以上も昔の話だし、ネタとして話しても問題ないと思うのだけど、内容が内容なだけにちょっと心配であるのも正直なところだ。 が、今にして思えば、これは私が生まれて初めて開発受託した貴重な歴史でもあるので、せっかくなので紹介したい。 私が高校生のころに一所懸命貯めたバイト代ではじめて買ったマイコンは、コモドールのVIC-1001だったってことはどっかで触れたことと思う。 秋葉原の九十九電気で買ったんだっけかな。 はじめはBASICで遊んでいたがしかしそのレスポンスの遅さに嫌気が差して、すぐに機械語プログラミングに走った私。機械語入力は中学生のときに、TK-80で相当やっていたので特に抵抗は無かったな。 自分のマイコンを買うまでは、秋葉原の駅前にあるNECのマイコンがたくさんおいてあったBIT Inn(ラジオ会館の7Fにあった)まで片道25Kmの道のりを、学校が早めに終わる日は平日でも自転車で激走してって、いじっていた。 そんなある日、近くの普通の電気屋さんが、マイコンの普及を睨んでか二階にマイコン専用フロアを作った。はじめはNECのPC-8801が勢ぞろい。その後、出たばかりの最新機である無印9801が配備されるようになったって感じ。そこの専用フロアには、もともとその電気屋には居なかった専任のマイコン担当者が新しく入って、私が行くときにはほとんどいつも、そこに居た。 当時の私はそんな状態だったから、その電気屋に入り浸り、常連化したのは言うまでもない。もっとも、当時近所にマイコンいじれる住民はほとんど居なかったようで、いつ行ってもその二階のマイコン専用フロアは、私の貸切状態。NECの最新機器、当時は夢の周辺機器であったプリンタやおかしなジョイスティックのようなアナログインターフェースまでもが無料でいつでも使いたい放題という今にして思えばまさに天国状態であった。 そこで私は、自分でプログラムを作ってプリンタに出して遊んでみたり、スタートレックを越える惑星探査モノのゲームを作るんだといきまいてみたりしていた。 グラフィック能力やアドレスマップはVIC-1001(というか6502と6560)のほうが使いやすいななんて思いながらも、やっぱメジャーマシンは格が違うなと感じていた。8086の機械語も相当覚えて、8259割り込み制御やDMAコントローラーの扱いにも慣れてきたころ、そのお店のマイコン担当者(今にして思えばあれNECからの派遣だったのかなぁ)に声を掛けられた。
しかし、そもそも高校生な私にそんなオファーを受けられるハズもなく「あの〜、俺、学生なんですけど知ってますよね?」って冗談交じりで断っていたのであった。 が、バイトということなら話は別だ。 なんせ当時は超貧乏時代(今は多少マシになってそこそこ貧乏ぐらいにまでなれたが)。電車賃惜しさに自転車で秋葉原まで通っていたぐらいだったんだから、仕様を聞く前に『幾らもらえるんですか?』と聞いていた私。 『5万円ぐらいかな』。なぬ〜、5万円だと! 俺の今のバイト代2ヶ月分じゃないかぁぁぁぁちなみに当時私は家庭教師のバイトをしていた。 その場で商談成立し、なにを作るか話を聞く。このへん順番が逆なのはまぁお子ちゃまだから仕方ないね。なんつったって高校生。 結構ちゃんとした表紙付きの書類がすでにあり、それを見ながら説明を受ける。 多分これが、私が生まれて初めて見た、開発プログラムの機能要求仕様書だろう。 中身はそれほど難しくなかった。 あるデータを画面から入力し、それを計算する。結果を画面に表示し、その結果を元に、別のシミュレーション計算を行い、その結果をまた画面に表示する。今で言えば、初期値を入れてシミュレーションし、結果をグラフに表示するような感じかな。ただ、そのときはグラフ表示ではなく、テキストをだーって、表示するのでOKだった。 で、その結果をファイル(5インチのFDD)にN88-BASIC(ROM)で読める形式で保存するというもの。 グラフィック表示が不要だったのでまずは一安心したのを覚えている。NECのGDCはそのときまだ使いこなせてなかったからね。 が、ひとつ難しい点があるとすればそれは計算速度だった。 計算処理の構造上、多重ループになりそうなところが多くあり、また、その中では、ループ変数を参照して計算しないといけない。当時のBASICは単純ループで1から1000まで数えるだけで十秒近くかかるぐらいだったから、これは結構時間かかりそうだなって思った。 その担当者氏も、『これ一度BASICで組んだのだけど遅くてね。マシン語で組んでみて欲しいんだ』と。 私:『これ、なんに使うものなん?』 店:『○車が演習する時の弾道計算』(念のために一部伏字) 私:『は?』 店:『だから、○車が演習する時に打つ弾の弾道計算』 そんなもん高校生にバイトでやらすなと言いたかったが5万円は正直魅力だ。まさか実戦に使うわけじゃないだろうし、○車の演習つったら富士山とか北海道の山奥だろう。多少バグってもまぁ大丈夫っぽい(ほんとか?)。しかも、計算内容は仕様書に明記されており、私はその通りに作るだけ。 でも、なんとなく兵器産業という物騒な世界の一部に手を染めることに抵抗を感じた私。でも5万円は欲しいし。魂を売るか?(大げさ) 私:『本当に俺が作ったプログラムで計算した結果で弾打つのか?』 店:『いやわからん。が、たぶん、演習の設計をする際の机上計算で使うだけで、実際打つときは○車に積んである機械でやるから、これで弾打つわけじゃないと思う』 そう聞いて少し安心。まさか○車がN88-BASICで制御されているわけないしな。 結局そのプログラムは一週間ほどで完成。高校生が一週間で5万円である(しかも放課後のみ)。これはおいしい。 その後もなんだかわけのわからない依頼が相次ぐ。 A/Dボードからやってきた信号値を監視して、ある値になったらポートをオンオフ制御するもの(これは何か聞いたら水族館の水槽の温度管理とのことだった)や、逆に割り込みが上がったらそれをトリガにしてポートをオンオフするだけのもの(これは防犯センサーの監視)とか。 そうそう、当時から私はそうであったのだが、仮に『書いてある通りに作れば出来る案件』であっても、それが一体なにになるのか、自分が手がけているものが、一体どこでどう使われるのかを必ず明確にしてもらっていた。それがなされないものは断ったと思う(実際にそういう案件は無かったが)。 依頼案件はマシン語であるという点を除けばどれも簡単なものだったので、一度『こんなのいちいち俺に頼まないで誰か他にできる人居るんじゃないですか?』と聞いてみた。が、『それがさ、出来る人が居ないんだよ。特にマシン語は』との返答。 出来る人が居ないものを、俺は出来る。 ふ〜〜ん、マイコンのプログラミングって、もしかしたらそれで食っていける? なんて、思った。だって、放課後バイトで一週間5万円。そう毎回バイトがあるわけじゃないから月収でも5万円ぐらいだったけど、仮にこれを本業としてちゃんと仕事取ってきて、朝からプログラム打っていれば今の3倍はこなせる。理論的には週に15万円で月に60万円。稼働率100%は無理があるから、70%としても、42万円。 当時はまだ税金とか年金とか健康保険なんていう概念は自分には無かったからこれがそのまま全部手取りになると思っていたり、アマチュアなところはあったがこの42万円という額は、当時の私にとっては自立できる、食っていけると思うに充分な額であった。 けど、私にとってマイコンは趣味の世界。趣味は趣味としてお気楽に楽しみたいという気持ちもあってか、さすがに高校生で独立は考えたけど実行しなかった。そのへんが、実業家になれない私の限界かな。 で、その後学校の部活動も忙しくなり、その電気屋からもいつしか遠ざかるようになってしまった。 --------------------------------------- 「レーザー兵器の軌道計算」で思い出した昔のおとぎ話はこれでお終い。ただ、これと関連するかどうか謎だが後日談があり、上記の通りその電気屋からも遠ざかり、高校二年生も終わりに近づき、さて来年は大学受験か? 専門校か? って進路に悩み始めたある日。電話のベルが鳴り、電話を取った母が私に『電話だよ』。 俺:『どこから?』 母:『防衛大学とかなんとか言ってるよ?』 俺:『防衛大学?』 電話に出てみると、なんでも防衛大学では、成績が優秀な学生に多く受験して欲しいとかで、なんらかのリサーチで俺が候補生になったとか言っている。当時の私は確かに数学化学物理は代ゼミの模擬試験でも全国トップだったが、英語国語は下から数えたほうが早い状態。とても成績が優秀とは思えない。 瞬間的に「これは怪しい勧誘か?」 と思ったが、もし怪しい勧誘であれば東大早稲田慶応とくるだろう。なぜに防衛大学? さらに話を聞くと、「防衛大学への受験を検討して欲しい」「願書を出すだけでもいいから」「もちろんお金は一切かからないし、どっかに来いとも言わない。防衛大学っていう大学があるってことを知って欲しいのと、もしソノ方面やコンピュータでの情報処理に興味があれば、ぜひ進学先として検討して欲しい」というようなことを言って、電話は切れた。 どうやら怪しい電話ではなく、マジな大学紹介案内であったようだ。 しかし謎なのは、どこでどうやって当時の私の存在と連絡先を知ったのかだ。当時は個人情報保護法なんてものは当然無く、個人情報も今よりもっともっと大らかに管理されていた時代。また、それで問題もさほど起きなかった平和な時代。だから、模擬試験の申込書や通っていた学校から大学向けの資料などで私の情報があったのかな? ぐらいにしか思っていなかったのだが、まさかあの弾道計算プログラムを作ったから・・・なんてことは、まさかね。 |